高校時代、横溝正史作品にはまり、全作品を読みまくった。
昭和の話である。
母親は、おどろおどろしいからやめなさい、と言ったが、
私にはちっともおどろおどろしくなかった。
それよりも太平洋戦争のことや戦後の日本の状況のこと、
また見立てや季語などのトリック、親族の因縁や悲しさが横溝作品から伝わってきて、
私には一つのバイブルのように感じられた。
そのころ電車通学をしていた私は、自宅から最寄り駅まで表のバス通りではなく
車のほとんど通らない裏道をいつも行き来していた。
そこは両側に大きな桜の木が何本も植えられ、春には花が咲き誇り、夏には
青葉が両側からトンネルのように重なり、いい感じの木陰が出来る道だった。
見上げながら歩くと、重なり合った葉からちらちらと陽が差し込み、
自然の美しさに酔いしれることができた。
密かに「木漏れ日の道」と名付け、時々顔を上げながら毎日通っていた。
妙な高校生だった。
ある日、学校帰りにいつものように木漏れ日の道を歩いていると、
向こうから茶色の着物を着たおじいさんが、杖をつきながらゆっくり歩いて来るのが見えた。
その人も上を見ながら歩いて来るので、同じ感覚の人がいるのだなと嬉しくなった。
しかし転ぶと危ないなと気になっていると、突然心臓が止まりそうになった。
横溝正史氏だった。
本物だった。
私は硬直したまま、横溝氏が横を通り過ぎるのを見送っていた。
ふと我に返りあとを追いかけ、作品が大好きなことをどうにか伝え、震えながら握手を求めた。
「ほほう、高校生がね。ではごきげんよう。」
嫌な顔もせず、いつも起きる出来事の一つのようにひょうひょうとした感じで握手をしてくださった。
私は舞い上がっていたが、あとでよく調べてみると、
木漏れ日の道は横溝氏の散歩コースだったようだ。
最寄り駅近くに豪邸があるらしいと聞いてはいたが、どこにあるのか知らなかった。
私は彼の豪邸近くを毎日歩いていたのだ。
幸運にもそれから何度か散歩中の横溝氏にお会いした。
もし次に出会えたらサインが欲しい、という願いを胸に描いていたが、
出会えた時は本を友達に貸していたり、忘れたりして持っていなかった。
ノートにサインをしていただくわけにもいかず、挨拶をするだけで精一杯だった。
この作品のあの場面はどういう経緯で、などと聞きたいことがいっぱいあったが、
聞く勇気もなかった。
横溝氏はいつも「ごきげんよう。」と満面の笑みで応えてくださった。
ようやく本を持っていたときが、最後の出会いとなった。
「私の本だね。ありがとう。ではごきげんよう。」
これで私が本当に横溝氏のファンであると証明できた、と安堵したことを覚えている。
今年は横溝正史没後30年である。
私が偶然にも出会えた時期は、横溝氏の晩年であった。
小生意気な高校生に何度も声をかけられ、無礼な態度でサインを迫られ、
さぞかし嫌な思いをされたことだろう。
2006年、横溝氏の木造平屋の書斎は所縁のある山梨市に移築され、
横溝正史館として拝観できる。
いつか訪れたら、過去の自分の非礼を詫び、彼の面影を偲びたいと思っている。