時代小説の人気は根強いですね。
なかでも江戸時代ものは、ことさらに英雄や剣豪が登場しなくても、大きな事件が起こらなくても、
名もない市井の庶民のささやかな暮らしを丹念に描いたものでさえ多くの読者を獲得しています。
「日本人は時代小説が好き」という言い方はおそらく正確ではないでしょう。
江戸時代は日本にしかないものなのですから。
私は現在の欧米の文学事情には疎いのですが、日本のように、
例えば18世紀のロンドンの市民の日常を描いた小説が普通に出版されていたり、
フランス革命に翻弄される庶民を描いたものがベストセラーになる
ということはあるのでしょうか。(日本の小説家が書いたものはありますね)
新しい時代小説作家も次々と登場しています。よく知られているところでは、
山本一力さんは膨大な借金を返済する手段として時代小説を書き始め、
現在大人気の佐伯泰英さんは、「官能小説か時代小説か」と
編集者に択一を迫られて時代小説を選んだと聞いています。
新人作家だけではなく、既に現代小説作家として地位を確立した方が、
ある程度の年齢に達するとにわかに時代小説を書きたくなるという傾向もあるようです。
随分前になりますが、社会の裏面をえぐるように描くのを得意としていた
故黒岩重吾さんが古代を舞台にした小説を次々と発表されたときは、
少なからず驚かされたものでした。
「高層の死角」でデビューして以来、数々の推理小説や問題作を発表してきた
森村誠一さんが初めて本格的な時代小説を手掛けられたのは、
1984年に週刊誌で連載を開始した「忠臣蔵」ではなかったでしょうか。
実はその第一回を読んだ直後、以前に日本近世史を少しばかり囓っていた私には、
その展開に時代考証的に読み過ごせない違和感があって、
大胆にも編集部にハガキを出しました。3カ所ほど「これはおかしいのでは?」と指摘し
「少なくとも本格的に時代小説を書くつもりなら、基本的な常識は踏まえていただきたい」
などと、今にして思えば随分失礼なことを書いたものです。
それから程なくして、私宛に毛筆の封書が届きました。
裏を返してみると差出人は「森村誠一」となっています。
急いで封を切ってみると、青い万年筆の森村さんの直筆です。
私の指摘のひとつひとつに対し、
「これはこういう意図で書きました」「これは次回で訂正しました」と
丁寧に説明された内容になっていました。
そして「今後もお気づきの点がありましたらご指摘賜りますよう、
まずは御礼申し上げます」と結ばれていました。
まさかご本人から手紙が届くとは思ってもみなかった私は、ただただ驚きました。
森村さんといえば連載を何本も抱える大変なベストセラー作家で、
その頃も多忙を極めていた筈です。
それが、編集部に届いた一読者の生意気な手紙にきちんと目を通し、
あまつさえ返事までくださったのです(私は返答を求めてはいませんでした)。
文面はあくまで謙虚で誠意あるもので、その端正なプロフィールと痩身の体躯から、
神経質でピリピリした人かな?と勝手に決めつけていた私の森村さん像を完全に覆すものでした。
ちょうど長女が生まれた年でしたから、それから25年たったことになります。
森村さんは言うまでもなく現在までずっと第一線で精力的に作品を世に送っておられます。
あの時いただいたお手紙はもちろん私の宝物になっています。
社会的に地位のある方と仕事を一緒にする機会の多い私の友人が、
「偉い人ほど人にやさしくて威張らないのよ」と言っていたのを思い出しました。