今年も、例年通りの時期に美しい桜を見ることができてなんとなくほっとしています。
さて、唐突ですが、ある本を「愛する」姿勢として、
皆様、次のどちらがよりふさわしいとお考えでしょうか。
1 汚れないようにガラスのケースに入れて飾る。
2 いつもバッグやポケットに忍ばせ、折あるごとに取り出してボロボロになるまで読む。
私の考えは、断然2のほうです。
本を書店で購入する時や、図書館で借りていこうと決める時、
本の内容が自分にとって必要だからであり、外観はあまり気にしません。
絵本などは別として、本は知識や情報を得たり、
その内容から感動を受けたりすることに価値があるのだという了見でおります。
書店で平積みになっている時に、表紙の絵や写真に目をひかれ手に取ることはあっても、
よほどのことでないと購入にまでは至りません。
本の装丁はあくまでも読書の楽しみを支える「脇役」と考えておりました。
そんな実用主義だった私でも、本の装丁の魅力に目を向けるきっかけになったのが、
昨年、中央館の展示特集であった「装丁の仕事」からです。
改めて考えてみると、私にとって表紙の絵柄が重要な時とはたとえば・・・
ファンタジー小説などの想像を自分勝手に膨らませていくときに
表紙や挿絵のイメージが自分の空想をうまく裏打ちしてくれます。
『不思議の国のアリス』は、初めて読んだ本のアリスがイメージとぴったり!!
『魔法使いハウルと火の悪魔』では、城の不思議な作りと伸び縮みするハウルの
服が想像できなくて、表紙の絵の助けを借りました。
『孤笛のかなた』の表紙絵は、読み終わった後の切ない気持を十二分に癒してくれたもので、
今ではその絵を見るだけ感動がよみがえります。
エッセイや伝記などでは著者や登場人物の姿が‘人となり’を語っています。
情報本・実用本では、何度も取り出して利用するうちに、
よき相棒のごとくになり、その大きさ厚み絵柄が親しみを増します。
いつも身近な定位置に居てくれなくては困ります。
このように本の装丁は実に多くの示唆に富むものです。
堀口大学さんの次の一文を読んで、思わず笑ってしまいました。
「いつぞや僕は、退屈しのぎに日本人のどんな作品に、
革の装幀がふさはしいか知らと、考へてみたことがあった。
僕は殺すと云はれても、万葉集や古今集を革の装幀に仕立てる気にはなれない。」
(『装幀東西語』より)
やはり日本の古典には和紙が似合いますか?
そんな物騒な話になるほどのこだわりをお持ちなのですか、と。
詩人の長田弘さんは、「人が服を着るように、本も服を着ている。
着ている服がその人の印象を残すように、本の着ている服もまた、
その本の印象をつよくのこす。本の服というのは本の装丁だ。
――中略――とくに忘れられない本の場合、その本を読んだという記憶のなかには、
きっとその本の装丁の記憶が織り込まれているのに気づく。」
(『日本の名随筆 別巻87』より)と言っています。
確かに愛着のある一冊は装丁の記憶と共にあります。
日頃しばしば思うことですが、自分の大好きな本・大いに感銘を受けた本を
抱えている方を見かけると、見覚えのある本の姿に向かって
「あ!また読んでもらっている。よかったね!」と声をかけたくなります。
書架の整頓をする時には、本の大きさがこんなにもバラバラでなかったら
どんなにすっきりと整然と並べられるだろうと思うこともありました。
でも、それぞれの本たちにはそれぞれのこだわりがあり、
個性を主張しているのだと思うと、多少の凸凹を作りながらもよくぞ整列してくれた・・・
本当は単身で暖炉の上にでも飾られたいだろうに、とそんな空想にまで至るのです。