同世代の友人と渋谷で用をすませ、食事をとることになった。
50過ぎのおばちゃん二人は、渋谷の駅は乗り換えで利用しても、昼間の食事となると思いあたる店がない。
「なに食べたい?」
「うーん、コレといって特にない。」
などと話しながらバッグから素早くスマートフォンを取り出し店を探す。
ほんの数年前まで、路上で「インターネット検索」なんてことは考えられなかった。
世の中便利になったものである。キーワードを入力して検索ボタンを押すだけで求める情報が溢れだす。この洪水のような情報は、はたして必要か?
「余分な何かや足りない何か」
ふと、最近読んだ本の、あとがきの一節が思い浮かんだ。
作品は、小学五年生の少女の「私」が日々の出来事を通して、心と身体の痛み、過剰と欠損、つまりは生と死について書かれている。
『満月のさじかげん』Y913.6/カ
私は、折にふれ「余分な何かや足りない何か」と反芻するのである。