タイトル:その落とし物は誰かの形見かもしれない
著者:せきしろ
請求記号:914.6/セ
中央図書館所蔵コード:612210357
散歩の途中、ふと足元に目をやったら軍手が片っぽ落ちているのを見つけたとします。
さてその時、あなたは何を思いますか?
別に特に何も思わない?
そりゃそうです。道端っていろいろなモノが落ちているものだし、それが軍手だろうが何だろうが、いちいち何かしらの思いを馳せたりしていたら疲れてしまって身がもたないですよね。
ところがこの本の著者のせきしろさんによれば、落ちている手袋を写真に撮る人もいるし、学術的・客観的に分析する人もいるそうで、そう言うご本人はというと、「想像する」のです。たとえば「この手袋は誰かの形見かもしれない」と考えてみる。するとただの手袋がさまざまな意味を持ち始めてドラマが生まれてくる、のだそうです。
あるいは、これは意図して落とした手袋であるのかもしれない、なぜって、落としておいたら『ヘンゼルとグレーテル』の小石やパンくずがそうだったように帰り道の目印になるから、ともせきしろさんは考えます。さらに想像は発展し、決闘を申し込んだ形跡かもしれないし、もしかしたら悪い魔女の魔法で軍手に姿を変えられた王子様なのかもしれない、それにしてもカエルとかならまだしも軍手って……、と暴走気味。いやいや、それドラマ生まれ過ぎだから。
実は私は手袋を落としてしまったことがあります。目を皿のようにして来た道を戻ったのですが、見つかりませんでした。「お、いいもの見つけた。ラッキー!」と拾っていった人がいたのか(でもそんな見るからに高級そうなものではない)、毎朝ボランティアでそのあたりを掃除しているご老人とかがいたりして、箒ではき集められたゴミと一緒に容赦なく捨てられてしまったのか(こっちの方が可能性は高い)、とすれば最終的に市の処分場行きかなあ…。
私は自分は持ち物にそれほど執着を持つ方ではないと思っていたのですが、この時は損得の感情だけでなく、おなかの底が少し痛いような、もの悲しい気持ちになりました。なるほど落とした側から考えても、いろいろドラマが生まれるようです。私のドラマは全然ドラマチックではなかったですが。
手袋ばかりでなく、おもちゃの百万円の紙幣とか、「営業中」の札とか、「たこ」と書かれた石とか、よくもまあこんなにヘンな落とし物(あるいは置かれた物?)ばかり見つけてしまうせきしろさんが、ソレの前でしばしたたずみ、やがてさまざまな想像と思索にふけりつつうつむきかげんで歩いて去って行く様子が思い浮かびます。感受性の鋭い繊細な方なのだろうな、想像が広がり過ぎて毎日疲れてるんじゃないかしらと思いつつ、でも、その姿にそこはかとないおかし味を感じるのです。
そんなせきしろさんについて行ったら、またいろいろなドラマを聞かせてもらえそうです。さて、次に出会う落とし物はなんでしょう?